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2015年07月23日

【感想】映画「死の棘」を観ました。

ラボで、「死の棘」を観ました。私にとっては今回で2度目の視聴です。

〈映画の中の奄美のシーン〉
・カケロマの海のシーン
・特攻隊の基地から特攻艇を引っ張り出すシーン
・兵隊が並んで敬礼をしているシーン

・海軍の軍服姿の島尾敏雄

・ノロ神(ユタ神?)が何人も白装束で並んで森を歩いているシーン
・ケンムン話のシーン
・夜の浜辺での八月踊りのシーン

・あとは、奄美出身の年老いた両親の登場

シーン分析を詳細に行っているわけではないですが、まこんなシーンがフラッシュバックのように挿入されている。
ある意味では、戦争に関わるシーンは、島尾本人にとっての奄美の象徴シーンであったり、
奄美の祭事や踊り、奄美の生活風土の象徴的なシーンのような気がする。

「象徴としての奄美」、それは、また島尾のなかの奄美の位置であるのかもしれない。
島尾は、奄美をどう描いていたのか、彼の眼差しのなかで奄美はどう見えていたのだろう。


ともかく映画では、そうしたシーンが登場人物による解説的な語りもなく挿入されている。

近代的な強烈な自我と自我のぶつかり合いのなかで、ぽかっと空いた隙間のようなフラッシュバックシーン…近代への超克・救いへの窓口を暗示するかのように。

それにしても、昭和27年生まれの私にして、この強烈な自我と自我のぶつかり合いは、なんとも感覚的についていけない。
恋愛もまた社会・時代の関数であるが、この2人のぶつかり合い、つまりコミュニケーションのプロトコル、いや、〈性愛のプロトコル〉は、なぜか時代を感じるのだ。

恋愛感覚・結婚感覚・夫婦感覚・不倫感覚、つまり絆の感覚が随分ちがうなぁ。。。と思った次第。離婚率が上昇している今日、ここまで互いに執着しあう夫婦の姿は、今なら、映画(大衆的なドラマの欲望)として支持されるのだろうか? 

やっぱ、正直、2人の存在論的な重さは、団塊の少し後の世代、四畳半フォークの世代の私にはよくわからんなぁが本音。私がそうした人生の修羅場を経験していなからなのか、芸術的なセンスがないのか、文学青年とは言えない私には、正直、共感的な感動は生まれなかった。
(本も買ってあるのですが、忍耐的にとても読み続けられない。毎回挫折してしまう。)

救いの場所、、、アナザースカイとしての南島
この志向は、いまも変わらないのかもしれない。Iターンの行為の起動因でもあるのではないだろうか。島尾にとっては家族の再生の場として描かれているが、今なら、家族だけでなく、個人旅行が多いことからも、ひとりひとりの個人人格(個格)の生き直す場、再生の場としての南島ということになるのかもしれない。これまで観た映画の「物語の構造」はだいたいたそんな形となっている。
(by. Kato)


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